「人たらし」であれ。
だいたいどの組織にも、愛されたりどこにいっても好かれる人が、いる。
万人に好かれる必要はないとは思う。コミュニティも働く場所も選べる今、その場所が自分に合わない、と思ったら、逃げた方が賢いときだってある。誰かに合わせて自分を縮こめるなんて、今の世界で生きてたら、絶対もったいないものだ。
それでも、「誰かに頑張って好かれようとする」ということと、「誰かを幸せにした結果好かれる」というニュアンスの差が、自分らしくかつ満たされて生きる中では、重要になると思うのです。
その後者であることが、人を幸せにする「人たらし」と呼べるんじゃないかって。
どこにでも、そんな人はいるもので。
そんな「人たらし」を観察してみた・・・!
まわりで見つけた、実録:人たらし。
・出かけて見つけたコーヒースタンド。これはセンスが良い!と思ったら、今コーヒーの企画をしている友人にすかさず紹介。自分のリコメンドコメントも添えて。
・すれ違った時、エレベーターを待っている時、ちょっとコーヒーを入れる時に隣になった時、など、瞬間の時間で一緒になった時、必ず沈黙を破ってくれる側の人。
(こういう瞬間って気まずい上に、瞬間で相手に話しかける一言にセンスが滲む)
・facebookなどのSNSに載せていないのに、誕生日には毎年連絡をくれる。
・髪型、ファッション、メイク…相手の変化にすぐ気付いて、さりげなく伝えたり、さらりと褒める
(ただしこれは男性→女性の場合は、ネガティブに映る時もあるので割と注意が必要、笑)
・自分からいじられそうなグッズを身に付けて、あえての隙をつくる。
など、など。
よくよく考えてみると、この人たちは、常にいつ何時でも、しかも予想外の瞬間でも、自分が思うことよりも相手が何を考えているのかってことが、頭にあるのかもしれない。基本的には生きていく上の主語は絶対に「I」なので、そこのシフトには相当な意識改革がいるような気もする。
多くの人は、他の人と一緒にいても、自分が幸せになるために、何事にも全力を尽くしてしまうけど、この人たちは、ややもすればどんな瞬間でも「相手の幸せ」を叶えるための脳内シェアが高いように思う。
この思考のシフトをするためには、きっと必要なことが二つあって、
①自分がもうこれ以上ないってくらい、自分で自分のことを満たしてあげること
②その上で、毎日の中で自分のことを考えている時間を減らすこと
かなと思う。
自分で自分を幸せにできずにして、相手のことを幸せにはできないから、きっとより重要なのは①。
自分が好きなことを自分にしてあげる、自分の思っていることを素直に認めて発信できるようにしてあげる、自分に嘘をつかない。そう、十分な自己理解をした上でそんなことを続けていくことで満たされて、するとコップの水が溢れるように、気づけば自然と②になるのだと思う。
誰かを幸せにできる「人たらし」は、世界を救う。
どうせなら、好かれることを気にするより、誰かのことを幸せにすることに重きを置いて、生きたいね。
まずは、明日すれ違った誰かをニコっと笑顔に変えることから、はじめよ。
コミュニティ内での会話の法則
ずっと、会社やチームでの会話がとっても苦手だった。
おそらく、自分に兄弟がいなかったせいか、人って集まると一体何を話題にしているんだろう!?とか、改めて自然に「誰かと同じ空間にいて、喋る」ということに恐怖心を覚えることが多い。単純に、人より機会がなかったんだと思うのです。
もちろん、何か目標を持ってやろうとしている時や、仕事中はいくらでも話せる。とっても苦手なのが、その合間と合間。目標を持っていない時の、コミュニケーションの隙間や余白の使い方が、どうにも人より関心がありました。
社会人になって、みんな仕事と仕事の間の雑談とか、ふとしたランチとか飲んだりとか、なに喋ってるんだろう!?と、こんなに話す事に対して敏感に感じ取ってるひといないんじゃ、と思うくらい、よくよく聞いていて。
もちろん、お互いの近況や、自分の趣味の話、週末の過ごした事、たわいもない話から広げていくのは基本。
それでも、意外に相手との相性や自分と相手のコミュニケーションの仕方では、お互いボールを投げてもちっとも盛り上がらないということが、よくある。えっ?結構面白い話したよね?興味持ってくれないの?自分が情熱をもっているものに「ふーん」とスルーされた時の寂しさったら・・・ありゃしない。
(ちなみに、大きな組織だと、全く人生の育ち方生き方が違う人同士が集められるケースが増えるので、よりこの溝が深い気がする、とわたしは大人になってようやく気づきました。理解してほしいとばっか思ってた自分、青かった。)
そこでやっぱり、コミュニティ内の会話は、コミュニティの話題に限るのです。
特に、お互いがお互いの人生を「私たちって絶対に完全に理解しえないよね」っていうタイプの組み合わせの場合や、そもそも歳の差があって、根本的に生き方やスタンダードが全く違う場合。
当たり前のことだけど、これを意識して過ごすだけで、ぐっとチームとの雑談がラクになる。
例えば、「THE・コミュニティ内雑談」は具体的にはこんなイメージ。
・まもなく始まる、会社の事業や注目されていることの話
・お互いが知っているor働いた事がある、先輩や後輩の話
・最近目立っている、気になるあの人の話(あだ名なんかつけた日には、もうまるで共犯者…!)
・絶対みんな裏で気になっている”あの人”のくせ
・嫌な事、嫌いな人への愚痴(共通の敵を作るっていうのは、チームの団結力を高めるカギになるよね)
やっぱり、みんなの利害関係があり、知っているひと・ことの話題は、ほんとうに鉄板。
特に「上手い!」と思うのは、どんなに小さい事でもそれをおもしろく変換して、話のタネにすることができる人。
そして、みんなが気になったあの人、あのことの、再現性が高い真似ができること。
よくよく考えればこれって、お笑い芸人と一緒。
「あーーーあるある!」「言われてみれば、、、大笑」ということ。誰かはスルーしていたことを、感性で拾ってコンテンツ化していくプロセス。そうか!話の上手い人って、どこか芸人さんの素養があるのかもしれない。と、改めて思う。
あとは、たまにいる”特徴を秀逸に真似て再現する”ことができる人。この人はほんとうに、人間観察のプロ。人のくせ、話し方、表情、もう人をエンタメにしてるな!ってくらい、再現性が高くて、見てて面白いんですよねー。気づけば楽しませてもらっているケースって、こういう人の場合がおおい。
そして不思議と、こういう情報を共有するって、どこか同じ仲間意識を醸成したり、絆を生むもの。
「(コミュニティの)わたしたちしか知らないネタの共有」「同じことに共感する」ということだけでも、生い立ちやビジョンが違っていても不思議と”仲間っぽく”なるもので。当たり前だけど、こういうプロセスを踏むから、人は仲良くなれるのだと思う。
どんなに血のつながりがなくとも、根本的に生き方が異なっていても、内部コミュニケーションがあるからこそ、その組織の一員でいられる。この上記のプロセスや経験をミルフィーユのように重ねていくと、本当に不思議なことに、全く人生が違う人との、絆が生まれる。もはやこれは、家族もそういうこと、なのかなあ。
このパターンは、コミュニティ形成ができるヒント。大なり小なり、これからは自分が所属するコミュ二ティが超絶重要な時代になるので、ますますこの絆の作り方、気になってます。
個人的には、日本はこの内部コミュニケーションに寄りすぎているような気がする(特にネガティブな人事情報)けれども、これも国や組織の特性として捉えて、そこに適応していくプロセスもまた、面白いよね。
コミュニティ内の会話については、ぜひいろいろ掘り下げてみたい。
「さん」付けで覚える
なかなか著名人の名前が覚えられない。
知識が増えれば、人生の楽しみが増える。
自分があんまり興味がなくても、「知っている」ことが増えれば、盛り上がる瞬間が増える。
人生をつまらなくしているのは、自分かもしれない。。
知識を増やすことっていうのは、知らないことを理解することなので、なかなかにエネルギーがいることだけど、増やしたら増やしただけ、いいことがある。それは、世の中に散らばる「いとをかし」を見つける能力だと思っている。
最近それを意識した、とあるエピソード。
ある、海外の高級ホテルに訪れる機会があった時。
そのホテルは、国内のVIPや海外の要客をもてなすようなホテルで、内装もサービスも一流クラス。初めて泊まった私は、その絢爛豪華さや来ている人たちの「ただ者でない感」に圧倒されていた。気づけば多分「すごい…」やら「きれい…」と口走っていた気がする。(我ながら面白みがないな、、)
帰国後、教養深い友人にその話をしたところ、なんとその人も泊まったことかあるという。
さすが経験深い人は違うなあ、と感心していると、「あのホテルは、停まってる車を見るだけでも楽しいよね!高級車のコレクションって感じで!●●とか、××とか、あったでしょー!」と言われた。
思わず閉口してしまった。いや、そんな見方、自分はしたことなかった・・・し、もはやホテルに泊まっている車すら意識してみたことなかったかもしれない。そんなことなら、見ておけばよかった!と後悔したのを忘れません。
思い起こせば、そのホテルか建ち並ぶのもその街ではもちろん一等地。そこに道行く人、住む人、もちろん車でそこに訪れる人のレベルも、桁違いなのである。せっかくなら、あらゆることをみて楽しんでおけばよかったな、と。
…それから、日本でも道に停まっている車にも興味を持って見るようになった私。。
自分を認識する力があれば、もはや人混みでも、駐車場でも、なんでも楽しめるかもしれない。
そう、自分の教養のフックをつくることによって、きっと楽しめる幅が変わるのです。
出逢ったあらゆるものに、感動して生きれたら。きっとそれは、子供が「これ、なにー!?」って無邪気に言うのと一緒なのかもしれない。いつのまにか、私たちは溢れるものと情報にいちいち「なにこれっ!?(きらきら)」と思う気持ちをどこか忘れているのかも。今一度、そうやって日常を見返してみたら、きっと面白いものが発見できるかもしれないよ、と、自分にも言ってみる。
突っ込み場所を提供するのは、もはやサービスである。
先日、ネットラジオを聞いていて、はっとすることがあった。
ネットラジオ。ニュースや時事のトピックを声で紹介したり、回のテーマについて深掘りする。自分の好きな時間に聞けて、 CMが限りなく少なく、とても気に入っている。
そんな中で、ある日、MCさんがひとつわからない単語があったそうで、google先生に聞いてみた、という。そしてまさかの、その結果が間違っていたのである。(その時はそのまま「たぶん○○ですかねー、」と、良い感じのゆるさで終わっていた)
すると、その回の終わった後。いつもよりもリスナーからのコメントが多いという。確かに、私も気になってコメントしてしまった!!笑 「いやいや、それ違うでしょ!これだよ!」と、なんか言いたくなってしまったのである。そして普段ならやったことがないコメント欄にまで書きこむというアクションすら起こった。
これはどういうことかなと考えてみると、やっぱり人は「突っ込みたがり」だし、「かまいたがり」なのかもしれない、ということ。「完璧に正しくて極めてロジカルなひと」よりも、「どこか抜けていてここは自分がフォローしなきゃ!」と思うほうがアクションするし、なんか何よりかまいたくなったり愛しちゃったりする。
困ったことは人に聞いたら、きっと誰かが助けてくれるかもしれないし、仕事でも自分ができないところを正直に言ったほうが、すぐフォローに入ってくれたりする。人は凹凸があればあるほど相手とつながることができるし、だからこそそんな凹凸を話題にしつつ、みんなに愛し愛されな仕組みをつくっていこうとするもんだよね。
ついつい自分の恥ずかしいところやダメなところは見せたくなくなってしまうけど、それはかえって人との接点を失っているということに、私は遅ればせながら、ようやく気づきました。
そう、突っ込みどころを見せるのは勇気、でも相手に対しては愛する余白をつくっていること。愛されるには、相手に対してどれだけ「心のパンツを脱げるか」(言い方古い?笑)がまさに鍵になるのだと思います。
自分の突っ込まれ場所は、自分で愛してあげましょ。
そんな自分は最近も基本日々ぬけぬけなので、「あ、忘れてた!(がーん)」なことはしょっちゅう起こるし、言い間違いは多いし、声は通らないから聞き返されるし、と、自分で見てよく落ち込みもするんですが、毎日そのおかげでよく笑ってもらいもしているので、むしろ役得だ!とポジティブへ変換しようとしています。
(でもやっぱりスマートな人には憧れる・・・)
「自分が話したいネタ」を話せばいい。
自分が話していて”最も生き生きしているもの”を見つけよう。
「話す」なんて楽しむもの。極論、話していて、嫌な気持ちになるものなんてちっとも話さなくていいものなである。
確かに話すことは「慣れ」だ。だから、ちょっと口下手な人は人より意識して心の中に浮かんだことを外に出す訓練が必要だし、周りの人との間の取り方やタイミング良く話をするのというは、場数を踏まないとわからないところもある。
それでも、話の仕方はトレーニングすれば、きっとよくなる。
重要なのは、中身。
人によって、出来事があったときのフォーカスするポイントも違う。
休日の過ごし方も、違う。違っていい。
自分はどんな話をしている時が、一番「楽しそう」か?
たとえば、
職場の人事や動向、同僚の気持ちにいち早く気づくタイプは、社内のコミュニケーションを盛り上げたり、対話を円滑にする人。
○○さんのおめでたいニュースがあった、○○は今こんな思いで働いている、来週ある違う部のイベントについて、とても楽しそうに語ってくれる。
自分の体験ベースで旬な物事にチャレンジする人は、コミュニティに新しい風を吹かせる人。
自分が先週末に訪れた場所や、知人友人の豊かなコネクションをフル活用して、ニッチで「生」の情報を伝えてくれる。
テレビや動画やゲームが好きな人は、プロの笑いやエンタメを楽しめる人。
今話題の芸人や鮮度あるギャグ、新しい言葉でどんどん会話を盛り上げ、毎日の会話の中でも面白く過ごそうというネタを一番持っていたりする。
別に最初は自分の得意な分野からでいい。
自分の得意なものや、イキイキできることから話してみる。楽しい気持ちを仕入れて、それを誰かに共有する。
そうすればその気持ちや前向きな情報がこの世界に広がって、どんどん楽しくなる。そんな世界のポジティブエネルギーの循環を自分が担っていると考えると、ちょっと楽しい。
自分の得意で会話を楽しみ、誰かを笑わせたり楽しい気持ちにできたなら、それだけで相手には素晴らしいギフトなのです。さ、なに話そう!
言葉でアウトプットする「くせ」をつける。
人を楽しませることができる人って、自分の楽しかったものやことを、どんどん身の回りの人にシェアできるひとなんだと思う。
これ、小さい頃から兄弟や親戚と仲よかったり、家族が聞き上手だったり、何かしらで根っからの話し上手な場合は、こんなことわざわざ言われなくてもわかるよ!ってことなんだけど(笑)、どうにもそうじゃない場合は、そう意識するようにすると人生変わるかも、って思ってる。
(少なくとも私は、社会人になってから、自分が周りと比べて相当口数が少ないことに気づいた、笑)
仲のよい後輩が、みんなでいるどんな時でも、
「こないだ○○に行ってきまして・・」とか、
「今週末は△△があるんですよー」とか、
「これがいま大好きで!!」と
自然にどんどんシェアする子がいる。
タイミングも話し方も絶妙で、みんなが思わず「ナニナニ??」と聞き続けてしまう楽しさがある。何よりその子自身が楽しんで話しているから、別に誰がどんな反応しようといい。気づけば話題はその子中心に回っていて、いつもその子の近況をみんなが気になって聞いたり、その子のスマホを見て話したりするんだよね。
芸能人→インフルエンサー→マイクロインフルエンサー、ならぬ、コミュニティ内のスーパーマイクロインフルエンサー、的な存在なのかも。
相手ありきで相手を楽しませられる時も必要だけど、時にはそんな空気を読まないくらい天真爛漫に、会話で人を楽しませられたら、ほんとにベスト。
別に、大したネタじゃなくてもいい。
□ この週末、何していた?
□ 最近、気になるニュースは何かあった?
□ 今世間で注目されているもので、どこか「むむっ!?」と気になるネタはあった?
□ 同じコミュニティで発生した小さなネタや事件、何か知ってる?
会社に入って報・連・相の意味がよくわかったけれど、楽しいことの報連相を意識して、ハッピーを増幅させられる人は、きっとどのコミュニティでも重宝されるはず。
口下手な人(自分も含め)は、自分が思っているより100倍くらい過剰に情報共有したほうが、実はこの世の中、うまくいったりするよ。自分が何を考えているか表現したほうが、愛されるし、安心され、共感される…と、いいことだらけ!
盛り上がるけど悪口だけはちゃんと避けて(これは違う意味で拡散して、回り回って自分を下げます)。「話し」は習慣、心がけ次第で変えられる。いつでも喋る癖をつけて、常にアウトプットしながら過ごして、人生スムーズに生きよう。